愛しく悲しいインスタレーション。
昔の日記を読んだら、2014年にトリエンナーレの記事を書いていた。
2019年は愛知のトリエンナーレに行こうと思っていたが、色々取り沙汰されているので行かないかもしれない。(今取り沙汰されているものが見たい・もしくは見たくないとかは何も無い。ただフラットに、芸術として括られているものたちを見に行きたかった。だから、なんだか「何らかの先入観を持ってその場所に行く」のも嫌だし、「話題になったあの場所へ行く」みたいなのも何だかなあ、と思うので、行かないかもと言っている。
基本的には色々なものをあまり先入観を持たないで楽しみたいと思う。ゲームも同じで、攻略本は見ない。「ああ、あそこにアイテムあってあれはもうこの機会しか回収できないんだよー!」と言われても、初めてのことを体験して楽しむやりかたの方が自分は好きだ。
なので、先日行った新国立劇場のボルタンスキー展のことを書こうと思う。
ボルタンスキーはフランスの作家で、彼の回顧録としての展示が開催されていた。ご存命なので、来日して講演会もやったようだ。
私は全く予備知識が無い状態で行った。なので、これから書くことは的はずれなこともきっとあるだろう。けれど、私の感想なので、正直に書いておく。
結論から言うと、面白かった。
好きか嫌いかで言うと、あまり好きではないとは思う。
直接的な、死に関する表現がすごく多かった。わざわざ婉曲的にしないのは意味があるんだろうし、作家の性格が出るような気がした。自分が制作を続ける生活の様子もずっとビデオで取り続けて、それも作品にしているくらいなので、自分=作品が本当に近いんだなあ、とぼんやり感じた。
一番良いなと思ったのは映像作品。
定点カメラで動かない映像なんだけど、ずっと音が鳴っている。
映像は、真っ白な風景に無数の棒が立っている映像。棒の先になにかがぶら下がって揺れていて、よく見るとそれが風鈴なのがわかる。確かに、音も「チリリリリン」といった感じの音だ。その音だけじゃなくて、ずっとゴオオオ、とうなるような音もしていて、これは強い風に風鈴が吹かれているんだなあ、とわかる。じっと見ていると、真っ白なんだけど、うっすら後ろの方に、でこぼこした薄いグレーの線が見える。あ、あれは稜線だ、と気づく。
つまりは雪山に風鈴が立っていて、それが猛風に吹かれ続けている映像だった。
なにもない真っ白の風景で、無数の風鈴が鳴らされて音が無数に鳴り続けているのは、何だかずっと見ていられるくらい良いものだな、と思った。
あと、クジラの鳴き音をまねる鉄製の道具を海岸に設置した映像も良かった。これはなぜか見ている間ずっと、手塚治虫の「三つ目がとおる」の写楽くんが作る機械を思い出させた。
逆に好きじゃないかもと思ったのは、単純なモニュメントや写真を使ったもの。組み合わされた写真、しかも新聞の死亡記事欄から取ってきた写真、が薄い電灯で照らされていて、いかにもモニュメントという感じのものだった。
なんで好きじゃないのか?と思うと、私自身が考える余地が、その作品の中にあまり無かったからなのかもしれない、と思い当たった。
ゲームでも初めて出会う体験を大事にしていたように、作品にもなにかの体験や感情を起こさせることを望んでいるのかなと思う。
あくまで私の中では、現代芸術、とくにインスタレーションは、「芸術」ではなくて「エンタテイメント」として消費している感覚が強い。何を芸術とするかとか、広義で見れば芸術もエンタテイメントも同じカテゴリに包括されるとか、あるかもしれないけれど、少なくとも自分の中での分類はそうなっている。
じっと鑑賞して考えを馳せるものというより、体験して楽しむもの。
最近は仕事も忙しくて気持ちの余裕もなかったので、「エンタテイメント」としての芸術を、現代芸術を消化して、楽しくすっきりしたかったのかなと思う。だから結論としても面白かった、と言える。少し迷ったけど、隣でやっていたクリムト展は選ばなかった。それもなんとなくその理論で自分の中では説明がついた。そういう気づきが自分の中で合ったのも、今回の展示を見に行って得たもので、やはり行ってよかったと思う。
帰りは六本木で、海南鶏飯と肉骨茶(バクテー)を食べた。
海南鶏飯も肉骨茶も大好きなんです。海南鶏飯は2つお店があって、行かなかったほうのお店もすごく評判が良いようだったので、また行きたい。
つれづれなるままに書いてみた日記でした。
(写真は今回の新国立劇場展示のために作られた作品らしいです。電脳世界っぽくてよい。)
ではまた。
こなかなこ